作者名
中原南天棒(中原鄧州)
作品名
富士画賛
サイズ
本紙:幅約32.3㎝。高さ約133.3㎝。
表具:幅約43.7㎝。高さ約195.5㎝。
状態
本紙、表装、多少のヨゴレやシミ、シワが少しあるものの、概ね良好です。
箱、多少のヨゴレがあります。
備考
本紙、紙本
合わせ箱

中原南天棒(中原鄧州)とは

中原南天棒(中原鄧州)
なかはらなんてんぼう
なかはら とうしゅう
1839年~1925年
明治時代から大正時代に活躍された臨済宗の僧侶。
中原鄧州より、中原南天棒として名が知られている。
天保10年、肥前唐津(長崎県)の小笠原藩士の子として生まれる。
11歳で平戸の雄香寺で得度(得度は仏教における僧侶となるための出家の儀式)し、全忠の法名を得る。その後、京都、大分県、諸国を行脚。
南天棒の由来は、全国行脚のなか、とある農家の牛小屋の脇に樹齢200年になる南天の樹が生えていた。その見事さに感嘆した鄧州は、「こうして牛小屋の隅に置けば只の南天じゃ。これから何年の寿命じゃ、一度は枯れるじゃ。しかし枯れたとて何の変哲もない。ただ家内の者らが惜しいことをした云うだけじゃが、これがワシの手に入ると、一つの法器となって、万世までこの南天が鳴り響くが、どうじゃワシにくれぬか」と頼み込み、木を切り取ってもらった。かくして手に入れた棒を手に、「これがワシの竹篦じゃ。これで天下の衲僧を打出するのじゃ」と言い放つと仲間たちは「それじゃあ貴公は南天棒じゃな」と返され、以降、南天棒が鄧州の渾名となった。著書『南天棒行脚録』より。
自らの名となった南天棒を獲得した鄧州は、全国の禅道場を経巡り、師家相手に法戦を挑む。鄧州が乗り込んだ道場は25か所に上り、未熟者だと断じれば容赦なく三十棒として南天棒で殴りつけた。そのため、明治時代屈指の豪僧として知られる。
僧俗あわせて3千人ほどの弟子を持った。中でも、剣術家、軍人などが多く、山岡鉄舟や児玉源太郎、乃木希典など。禅を通して互いを認めあう仲だった。
著書・著作本として『南天棒禅話』、『南天棒行脚録』、『提唱 碧巌録』、『提唱 臨済録』、『毒語心経』、『南天棒提唱 無門関』、『大悟一番』、『一喝禅』、『機略縦横』、『悪辣三昧』、『禅の極致 心を練り人を作る』

 

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