成瀬誠志(中津川市の陶芸家)の東京薩摩茶碗成瀬誠志(東京薩摩)の共箱
中津川市のお客様より買取したのは、明治時代の骨董品で、薩摩焼風陶器の細密画の元祖とも言われる「成瀬誠志の東京薩摩の茶碗」です。
今回、成瀬誠志の作品を初めて買取しましたが、拝見した際は、薩摩焼の茶碗だと思いましたが、調べたところ、東京薩摩という薩摩焼のジャンルではありますが、地元の中津川市の工房「陶博園」で作陶された作品でした。
画像のように共箱があったため、成瀬誠志の作品だと判断できますが、陶器自体にはサイン(銘)も無いため、共箱が無ければ判断は困難で、貴重な骨董の陶器作品です。当時、欧米で好まれたジャポニスムの流行による需要で、海外輸出されているため、国内に残る作品は少ないかもしれません。

【成瀬誠志とは】
成瀬誠志(1845-1923)は美濃国恵那郡茄子川村(現在の中津川市茄子川)生まれの陶芸家で、幕末から明治時代にかけて活躍した名工。
三歳で地元の茄子川焼の窯元の徒弟となった。明治4年に輸出向け陶磁器絵付業が盛んだった東京へ移り、陶画工となり、翌年には芝の増上寺山内に自らの窯を築いて、薩摩焼風陶器の絵付けを本格的に始め、後に「東京薩摩」と呼ばれる豪華な薩摩焼の制作を始めました。寝食も忘れて細密画の研究に没頭し、その描写を見た誰もが感嘆したという。
これらの作品は欧米での日本陶磁器ブームの影響もあり、横浜から多くが輸出されました。
1886年に茄子川へ帰郷し、工房「陶博園」を設立。ここで日光東照宮をモデルにした「陽明門」などの大作を手がけました。この作品は1893年のシカゴ万国博覧会に出品されましたが、輸送中に破損。それでも一部が展示され、多くの賛辞を受けました。
なお、日本の陶磁器コレクターとしても知られる動物学者エドワード・モースは、こうした薩摩焼風陶器の細密画の元祖として成瀬誠志を挙げています。

【美濃で作られた薩摩焼】
薩摩焼と聞くと鹿児島を思い浮かべるかもしれませんが、幕末から明治時代にかけて、薩摩焼は鹿児島以外の地域でも製作されていました。特に欧米での日本陶磁器ブームにより、金彩を施した豪華な薩摩焼が広まり、東京や京都など各地で「東京薩摩」や「京薩摩」として制作されました。成瀬誠志が、地元の中津川市(茄子川)へ帰郷し、工房「陶博園」を設立し、薩摩焼作品を美濃で制作しております。