野原櫻州の屏風の買取 豊臣秀吉(日本画・野原櫻州画) 日本画の美人と美男子 薔薇の櫻州として、薔薇の掛軸が有名な岐阜県の画家 野原櫻州(野原桜州)が描いた幻の代表作・名品の六曲一双屏風「醍醐の花見(豊臣秀吉が最晩年に約1300人もの人々を招いて催した宴を描いた日本画)」を岐阜市にて出張買取いたしました。
この屏風の絵画作品は、大正5年の屏風ですので骨董品の価値もあるのですが、何より、野原櫻州(野原桜州)が大正時代の画壇に認められ、一躍人気・有名画家となった幻の文展入選作品です。岐阜県の「揖斐川歴史民俗資料館」では平成7(1995)年に、町制40周年記念特別展として「薔薇と武者絵にみる野原櫻州の世界展」を開催しましたが、この代表作「醍醐の花見」は出品されておらず、古い絵葉書だけが残る行方知らずだった正に幻の貴重な絵画作品となります。
野原桜州(野原櫻州)の経歴・・・日本画家(明治19年~昭和8年)。
薔薇の櫻州として有名で、薔薇の掛軸が人気高い。
岐阜県揖斐川町出身。東京美術学校(現在の東京藝術大学)を首席で卒業。 明治37年、櫻州は上京し、日本画家の小林呉橋の門下となり、日本画の伝統である花鳥山水画を学び、翌年、東京美術学校日本画部に入学し、日本画家の寺崎広に師事し、明治42年、東京美術学校を首席で卒業した。学生時代は。主に描いていたのは歴史画だった。
野原櫻州が30歳の大正5年に、制作に1年3ヵ月を費やした大作、「醍醐の花見」を六曲一双屏風に描き、この屏風作品が、文展(文部省美術展覧会)に入選。だった。これを祝し、岐阜公園に現在もある伝統料亭「萬松館」で県知事や市長など約150名が列席し、大宴会が開かれた。
その後、住み慣れた岐阜を後に、京都へ移住、銀閣寺の近くに居を構え、制作活動に勤しむ。京都画壇の橋本関雪らと親交を結ぶ、橋本関雪とのコラボ作品(画賛)も数多い、竹内栖鳳、娘秀子の絵の師匠でもあった上村松園や陶芸家の清水六兵衛、伊東陶山、高橋道八ほか、政財界の大物や軍人、僧侶などとも親交があった。京都移住以後も岐阜とは親密な関係を保ち、たびたび大規模な画会を催すなどした。また、櫻州が京都に移ってまもなく、その人気ぶりから関西の有力実業家たちによる後援会「櫻州会」なるものが結成された。
櫻州の薔薇のモチーフは大正12年ごろまでに完成したといわれている。野原桜州の描く薔薇の掛軸には蜂が止まると言われた。 惜しくも47年の若さで胃癌で没するが、生涯に約2400点もの作品を残したと言われる。
岐阜市へ絵画・骨董品・掛軸・屏風の出張買取いたします。
掛軸の買い取りいたします。